2004年の12月3日、インドへ旅立ちました。
私の人生において、これ程の試練の旅はありませんでした。
アンドラプラディシュ州、ワラダイムアパレルという小さな村。
約23日間の滞在。
向かう一週間前から体調を壊し、体の痛みと微熱が続き、出発はほぼ難しいほどでした。この地から一緒に同行する人もおらず、出発前から孤独と不安にさいなまれていたのです。その意識は弱い体に拍車をかけました。……今となっては「よくぞ行ってきたね!」と過ぎ去った16年前の私にエールを贈ります。
「何故インドに行くのか……どうしても行きたいの?本当に行きたいの?」
当時は、出発前まで自問自答する日々でした。
既にインドで体現してくる前の段階で私のミッションは始まっていました。
インドは、私には縁がないと思っていました。けれど、深層の意識では、常に気になる国であることは理解出来ていたのです。
何故なら、私の今世の中で、敬愛と尊敬の念を持つ女性がインドで活動されていたからです。
それは、遡ること、約40年前・・・テレビの画面に映ったサリーを纏って現れた女性に、衝撃的な更に不思議な感覚をおぼえました。それが日本に初来日したマザーテレサーその人でした。
人生体験がほぼ少ない20代の私にとって、マザーテレサの存在を理解するにはまだまだ幼すぎました。ただそれ以降から、常に私の脳裏から離れない方になっていったのです。
時が満ちて……インドの旅へと出発させたのは、紛れもなく私の深い処の意識から立ち上がってきたものなのでしょう。
・・・マザーテレサは、ダージリンに向かう汽車の中で「全てを捨てもっと貧しい人の間で働くように」そう啓示をうけます。
その後、マザーは一人で、カルカッタのスラム街に入っていきます。
道端で死にゆく貧しい人逹。1番ひどい苦しみは、飢えでも、寒さでもない。「自分は誰からも必要とされていない」と感じることだ。マザーテレサは、そう考えていました。愛し合う為に生まれてきた私達は、誰からも愛されない時、誰とも愛し合うことができないとき、何よりも苦しみを味わうのです。愛し合うことが人間にとって最高の幸せだとすれば、誰からも必要とされないのは、最悪の不幸といっても過言ではないでしょう。それは貧困の国にだけある内容ではありません。私達自身の心にさえ現れます。
インドの旅では、確かに想像を絶する貧困の場面に出会いました。……胸が張り裂けそうになり、涙が溢れました。
何を学ぶ為にインドに降り立ったの?……自問自答を繰り返しました。貧富の格差の激しい、まだカースト制度が存在しているインド。胸の苦しみを押さえることが出来ませんでした。マザーテレサは、「人間の愛を育てる為には、体験と体現につきますよ」と、私に語っているようでした。
私が誘われたインドは、生まれてくる前に決めてきたシナリオ。行きたくないという思いは、現世でのマインド(思考)。その解離に苦しんだインド行きの試練は、私の本質の自分に出逢う為の試験のようなものでした。
今……思います。インドの旅は本当に自分の人生のプログラムに出逢う為の大切なミッションだったと。だからカルカッタに一人で臨んだマザーテレサのように、私も一人で行かなければならなかったと……
私達が様々な立場で人生の岐路に立つことは沢山あります。
しかし、今の選択は、既に未来がここにあると……。
今を生きる選択。「過去を憂い、未来から不安を呼び起こす歩みからの解放」
私達の内側にはびこる不安、心配、恐怖の脱却に対して、マザーテレサは、こう語ります。
【昨日は過ぎ去りました。明日はまだ来ていません。
私たちにあるのは今日だけです。さあ、今始めましょう。】と……
12月は、マザーテレサが偲び尊んだイエス・キリストを象徴するクリスマス。
私達は、聖なる月、聖夜にどんな想いを馳せることが出来るでしょう。
私は、あれほど行きたくないと感じたインドへ通算5回も訪れました。
初めてのインドの旅から16年の月日を越え、今やっと心の底から思います。
【愛の発見】
マザーテレサの言葉を借りるなら、
「愛の反対は、憎しみではありません。愛の反対は無関心です。」
愛と言う言葉は
単に……☆男女間の愛にとどまらず……。
☆人類愛は、人間だけにとどまらず……。
☆地球愛は、生きとしいける地球の全ての存在に……。
私達、人間の成長と進化が願われていると感じるのです。
足元の生活にこそ、愛を育て、慈しみを持って
12月、過去の聖人の方々の歩みを受け継ぎ歩める私達でありたいと……心から願っています。
祈り❇
